【紫原明子寄稿文】「だって幸せそうって思われたい」人たちが本当に幸せになるには

まじめ ピックアップ 結婚前の方へ

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"だって「幸せそう」って思われたい"

少し前、ある30代女性向けファッション誌で、こんなテーマの特集が組まれた。

電車の中吊り広告でこれを知った知人の男性は「モチベーションが全く理解できない」と言う。確かにここまで堂々と断言されれば、世代的にはメインターゲットである私も少々ドキッとする。とはいえ、全く理解できないというほど不可解でもない。実際のところ「幸せになる」ではなく「幸せに見られたい」という願望は、多くの女性の心の中に、少なからず潜んでいると私は思う。

たとえば独身男性に「今後どうなりたいか」と将来のビジョンを聞いたとして、返ってくる答えは、仕事で成果を出すことだったり、美人と結婚することだったり、より大きな稼ぎを得ることだったり、具体的な「結果」「成果」を目標に掲げる場合が多い。これに対し、女性に同じ質問をした場合、"幸せになること"、いわば「状態」をゴールに掲げる場合が少なくないように思う。

これは決してどちらが良いとか悪いとかいう問題でなく、成人した男女の置かれている立場の違いに起因しているのだろう。誤解を恐れずに言えば、成人した男性は、とりあえず仕事をしておけばあらかた許される。結婚しろ、子供を作れ、家を買えなど、親世代から古典的なプレッシャーをかけられることもあるだろうけれど、男性の場合、収入が高ければ高いほど婚姻率が上がるという統計もあり、モテることを含む大体のことは、稼ぎによって解決できる。そのため、仕事をしている、お金を稼いでいることへの安心感は絶大である。

一方で女性はと言うと、正しいとされる生き方により多くのバリエーションがあるのだ。結婚するもよし。一生働くもよし。専業主婦になったっていい。子供を産んでもいいし、産まなくたっていい。子供を産んでからも働いたっていいし、出産を機に辞めたっていい。女性の人生は複雑で、意を決して一つを選んだと思ったら、すぐにまたその先で複数に枝分かれしている。ましてや結婚、出産など、そのうちいくつかの選択には自ずとパートナーを必要とするが、こと女性となれば男性のように収入と婚姻率が比例するとも限らず、一定の収入を超えるとそこから先、婚姻率は低下すると言われている。時として仕事と結婚はトレードオフにもなり得るのだ。パートナーが見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。先の見通しが立て辛いからこそ、いかなる状況を迎えても満足する、「幸せ」という漠然とした「状態」をゴールに掲げざるを得ない。

あちらを立てればこちらが立たず

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これに加えて、自分のした選択が全ての人に両手を挙げて認められるかといえばそうでもなく、このことがさらに事態を厄介にする。どの生き方を選んでも、どこかで誰かが必ず文句を言うのだ。

「恋愛しなさい」

「結婚しなさい」

「女性なら子供を産みなさい」

「専業主婦は甘え」

「子供が小さいうちから働くなんて可哀想」

「女性だって働くべき」

「女性は家にいるべき」

「女は愛されてこそ幸せ」

あちらを立てればこちらが立たず。そんな状況でちょっとでも不幸な顔を見せようものなら、男女問わず「異なる生き方を良しとする人」がそろそろと近寄ってきて「ほらね、やっぱりそうじゃないでしょ?」と言ってくる。

実際私も上記のいくつかを直接的、間接的に言われたことがある。たとえばこういうのだ。

「あら、疲れてるんじゃない? 働き過ぎよ......大体、今そんなに働く必要ある? まだ子供が小さいのに、可哀想よ」

生き方の違いというのはさながら信じている宗教の違いに等しく、異なる宗教を信じる人は、誰かの弱り目を見つけては、悪意なく、良かれと思って勧誘にやってくる。私の生き方が正しいでしょ? と暗に言われれば、自分はそう思わない、ということを説明しなければならなくなり、これには骨が折れる。ときには相手を攻撃せざるを得ないこともあり、結果的に誰も得しない。

だからこそ女性は、自分と、自分の周りの秩序を守るためにも、自分の選択が決して間違っていないのだと、強い顔をしている人が多い。決して隙を見せずに、幸せそうな顔をしていなければならないと無意識に構えている人が多い。

不幸であることが過剰に許されない

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つまり女性の「幸せ」とは、他の宗教に付け入る隙を与えない結界みたいなものである。けれども、そもそもどうしてこうも女性の世界では布教活動が活発化してしまうのだろう。自分の正しさや自分の幸運を必要以上に強く示し、あわよくば他人までをも同じ色に染めようと働きかけてしまうのだろう。

思うにその最たる理由は「隣の芝生が青く見えるから」に尽きるのではないだろうか。幸運なことに今、私たちには多様な生き方が許されている。いかようにも生きることができるからこそ、ふとした瞬間に、自分の足元は容易にぐらつく。今の生き方は間違っているんじゃないか、より良い生き方があるんじゃないかと迷う。そんな中で、誰かが自分のやり方に賛同し、もともとの考えを変えることにでもなれば、やっぱり自分は正しかったのだと自信を得ることができるのだ。

"どんな生き方を選んでも、結果幸せならそれが正解"

個々の幸せを最強とするこの価値観、いわば「幸せ絶対主義」は、本来、女性たちが互いの自由な選択を尊重し、かつ自分自身を守るための協定のような役割をもって生まれてきたはずだ。ところが、様々な外圧にさらされながら「幸せ」の圧倒的な正しさを追い求める中で、この価値観がいつしか「不幸は選択を誤った証拠」という短絡的な因果関係を作り上げてしまった。 その結果、日常の中に当たり前にある不満や不幸を、過剰なまでに隠さざるを得ない、幸せそうに見せる努力を怠れない状況が生まれてしまっているようにも思う。

事実、私は過去に10年ほど結婚をして、後に離婚しているのだが、夫婦関係に終わりが見えつつあった頃、そしてついに離婚した直後は、そのことを周りの人に公表するのがどうにも憚られた。というのも、離婚したということはやっぱり、この相手は一生の伴侶になるだろうという当初の見込みが誤っていたということであって、「私は幸せです」の仮面を脱ぎ捨てなければならなかったからだ。ところが、いざ覚悟を決めて周囲に公表してみると、思いがけない反応が返ってきた。

「実は私も悩んでいて......」

「夫婦仲に問題を抱えていて......」

丸っきり幸せそうに見えた周りの女性たちの多くも、蓋を開けてみれば実は、大なり小なり悩みを抱えていたのだ。

それでも、誰かと共に生きていくのは素晴らしい

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そもそもどんな生き方を選んだって、100%一点の曇りもなく幸せ、なんてことはない。影がなければそれが立体であると認識できないように、いい体験を味わうための踏み台として、いい体験の合間に、ある程度悪い体験をすることも必要だ。晴れ時々雨、それが人生のデフォルトである。

だからこそ、幸せであろうとする努力は欠かさずとも、いつも幸せでいる、なんていうのははなから無理なことであって、トライアンドエラーを重ねてこそ、自分が本当に満足できる正解にたどり着けるというものだ。けれども今、多くの女性には、片時もぬかりなく幸せであるべき、という無言の重圧が課されている。エラーが許されないから容易にトライすることもできない。そのせいで、恋愛や結婚そのものに慎重になってしまうという人も少なくないかもしれない。

本来、誰かと共に生きていくって素晴らしいことだ。一度離婚をして結婚をやめた身ではあるが、それでも心からそう思う。困ったときに、真っ先に助け合える人がいるという安心感は何物にも代え難いし、現実的な話、家賃や光熱費などを分担しながら生きていけるのだからコスパもいい。

一人で生計を立てていく、というのは何かと心許ない世の中だからこそ私は、結婚へのハードルは今よりもっと低くていいんじゃないかと思っている。ダメだったらやめればいいし、なんなら2回、3回と結婚したっていいと思う。もし仮に資産がたくさんあって、万が一のときの財産分与の心配がある人は婚前契約を結んでおけばいい。子供をもうけた場合には自ずと配慮すべきことが増え、それについて細かく書くと長くなるのでここでは割愛するが、少なくとも他者と共に生きるハードルの低い社会を作っておくことは、子供たちが大人になって、自立して生きていかねばならなくなったときに、多少なりともメリットをもたらしてくれると思う。

また何より結婚というのは、最も手軽に他人の人生と自分の人生を同一線上に乗せることのできる手立てである。自分の人生を一人で十分に賑やかにできる人には全く必要ないけれど、一方で、飽きっぽい人や、何か少し物足りなさを感じている人には、良くも悪くも、本来抱える必要のなかった「他人の余計なドラマ」を運んで来てくれる。自分の冒険を自動的に2倍にしてくれるのだ。

日本人の半数近くが80年以上生きるとされている今日、自分だけを見つめて生きていくには人生が長過ぎる気がする。そういうことを考えると、結婚って、失敗を恐れて初めから挑戦を回避するにはもったいない、価値ある暇つぶしだ。私自身、最近は仕事と子育てで忙しくしているが、この状況が落ち着いて退屈したら、また結婚したいなと思っている。

......という私の願望はさておき、"どう転んでも幸せであればオッケー"という賢い着地点を知っているはずの私たち人間は、つまるところもっとその柱を信じて、自分を幸せにすることにより真摯になるべきだろうと思う。それは決して、誰かの幸せが脆いことで相対的に自分の足場の強度を確認することじゃない。誰が最後まで不幸を隠し続けていられるかを競うチキンレースで最後まで勝ち抜くことでもない。

他人と比較しなくても自分が本当に幸せな状態を見つけること。たまに不満を持ったり、不幸になったりする自分を受け入れること。そして、他人からの視線に縛られないこと。これらを意識することで、本来たくさんの選択肢を持っているはずの女性たちは、その自由を、今よりもっと伸びやかに謳歌できるようになるのだろうと思うのだ。

【著者紹介】

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紫原明子(しはら あきこ)

エッセイスト。1982年福岡県生。高校卒業後、音楽学校在学中に起業家の家入一真氏と結婚。のちに離婚し、現在は2児を育てるシングルマザー。

個人ブログ『手の中で膨らむ』が話題となり執筆活動を本格化。複数の連載を持つ。

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