歴史と受け継がれてゆく哲学

知っておくべきメゾン・式場の歴史と、
そのフィロソフィー。
起源と創設者の想い、
今日に至るまでの軌跡を追ってご紹介。
長きに渡って人々を魅了し、
歴史に名を連ねるハイジュエラー・
式場の真髄とは-

MAISON
1884

才能あふれる銀細工職人、ソティリオ・ブルガリによって1884年に創業されたBVLGARI。その後1920年代では、ギリシャ建築様式をベースにしたデザインから、幾何学模様を融合したアールデコが主流に。一転、1940年代からはしなやかな螺旋が煌めく「セルペンティ」に代表されるような、独自のイタリアンスタイルが台頭していく。大胆な色彩感覚に圧巻のボリューム、唯一無二のモチーフによって、ブルガリは先例のない美学を確立した。

1950~
60s
Photo:Camera Press/アフロ

1950年代半ばに入ると、大胆なカラーコンビネーションによってブルガリはその名を世界に轟かせる。「ドルチェ・ヴィータ(甘い生活)」と呼ばれるイタリア映画黄金期、コンドッティ通りの本店には多くのセレブリティが集い、こぞってブルガリのジュエリーを纏った。オードリー・ヘップバーンやエリザベス・テイラーといった名だたる女優たちまでもが、類稀なる色彩の虜に。神々しい美しさが共鳴し合い、ブルガリのジュエリーは一層輝きを増すのであった。

1975
(左)1975年ブルガリ・ブルガリ
※顧客向けギフトとして限定生産された
デジタルウォッチ
(右)1977年ブルガリ・ブルガリ
※1975年モデルをベースに作られた初代モデル

メゾンを代表するコレクション「ブルガリ・ブルガリ」が誕生したのは1975年。当初は100名の顧客のみに贈られた限定エディションのデジタルウォッチであったが、大きな反響を呼んだ。この成功を受け、1977年にはロゴを刻字した腕時計を発表。かつてないほどアイコニックなこのモデルはたちまち人気を博し、ブルガリを象徴するコレクションへと飛躍を遂げた。1980年代初頭には「ブルガリ・タイム社」をスイスに設立し、ウォッチメゾンとしても名声を高めていく。

2023

一世紀以上もの間、情熱的なクリエーションで世界を魅了してきたブルガリは、愛を誓い、称え合う証としても選ばれし存在に。メゾン発祥の地である愛の都・ローマにインスパイアされ、2021年に誕生した「ローマ アモール」は、まさに現代における愛の象徴。さらに、世界にひとつのリングをセミ・オーダーできる「デザイン ユア ラブ」の打ち出しなど、人生の節目に寄り添う昨今の取り組みは、創業から変わらず愛と情熱を体現してきたブルガリならではの革新といえる。

MAISON
1780

ショーメの物語の起源はフランス革命前夜まで遡る。数多の宝飾職人が名を馳せるパリにおいて、卓越した技術を持つマリー=エティエンヌ・ニトが1780年にサントノレ通りに店を開いたのが始まりだ。その手腕を見込まれ、1800年初頭にはナポレオン1世の専属ジュエラーに。絵はノートルダム大聖堂で行われた戴冠式の様子で、ナポレオンがジョゼフィーヌに冠を授ける場面である。この時、冠はもちろんふたりが身につけている豪華な装身具までを手掛けたのが、ショーメであった。こうしてヨーロッパ全土で名声を高めていった。

1907

1907年にはヴァンドーム広場12番地が拠点となり、メゾンの基盤ともいうべき、自然にインスパイアされた独創的な作品を次々と生み出される。さらに、上流社会のシンボルとしてエグレットやティアラを流行させるなど、非凡なクリエイティビティを発揮。ベル・エポック期の巨匠として、揺るぎない地位を確立した。第一次〜第二次世界大戦期は、キュビズムやアールデコなど、前衛芸術の様相を帯びた革新的ジュエリーが開花した時代でもあった。

1950~
70

かねてより王侯貴族や富裕層を顧客に抱えていたショーメ。1950年代に入ると、顧客層の広がりとともに作品の多様化も加速。伝統的なスタイルを継承しつつ、モダニティの息づく抽象的デザインが華麗に展開される。その集大成が、1970年にジュエリーコードを覆す新たなコンセプトを採用した、ブティック「Aecade(アーチ)」のオープンである。この頃にはウォッチ部門も創設され、ショーメのクリエイティブはますます多角的な広がりを見せていく。

2010

さまざまな愛の形を表現したコレクション「リアン」を1977年に発表して以降、ショーメのジュエリーは“絆”の象徴として永く愛され続けることとなる。2010年に誕生した「ジョゼフィーヌ」は、永遠のミューズである皇后ジョゼフィーヌに捧ぐオマージュ。翌年発表した「ビー マイ ラブ」には、皇后ジョゼフィーヌの植物に対する情熱が表現されている。これらのシグネチャージュエリーを筆頭に、ショーメの宝飾芸術は愛の象徴として、今なお輝き続けている。

MAISON
1847
1899年 カルティエラ・ペ通り店
1899年 カルティエラ・ペ通り店
Photo:Cartier Archives © Cartier

宝石職人のルイ・フランソワ・カルティエが1847年、師の工房を受け継ぎ、パリで創業したのがCartierの始まり。1856年にはナポレオン3世のいとこ、マチルド皇女がカルティエを訪れたのをきっかけに、王侯貴族からも愛されるようになった。1899年にはパリのラ・ペ通り13番地に店を移転し、新たなスタイルを打ち出す。世界に先駆けてプラチナを採用したのだ。レースのように繊細なこのジュエリーは「ガーランドスタイル」と呼ばれ、業界に革新をもたらした。

1904
王室御用達ジュエラー カルティエ
王室御用達ジュエラー カルティエ
Photo:Archives Cartier 54 Londres © Cartier

1904年、エドワード7世によって王室御用達に認定され、格調高きメゾンとしてさらに名声を高めていく。ルイ・カルティエが飛行家アルベルト・サントス=デュモンのため、初めて腕時計の原型を製作したのもこの頃であった。100年以上もの歴史を誇る「サントス」の誕生である。1917年には不朽の名作ウォッチ「タンク」を発表し、1924年には3つのリングが融合した「トリニティ」も誕生。芸術家ジャン・コクトーが愛用したことで、その人気は不動のものとなる。

1956
グレース・ケリー 婚約指輪
グレース・ケリー 婚約指輪
Photo:Album/AFLO

1956年、モナコ大公のレーニエ3世がハリウッド女優であるグレース・ケリーに贈った婚約指輪が、カルティエが制作した10.48カラットものエメラルドカットダイヤモンドが輝くリングだった。エメラルドカットのセンターストーンの両脇にバゲットカットのダイヤモンドがセットされたその高貴なデザインは、世界中を虜にした。グレース・ケリーもこのリングをこよなく愛し、最後の出演作となった『上流社会』の中で、このリングを着けたいと自ら申し出たと伝えられている。

2006
カルティエ ウーマンズ イニシアチブ
カルティエ ウーマンズ イニシアチブ
Photo:Jean Picon © Cartier

2006年、カルティエは世界に強い影響を与える女性起業家を表彰し支援する、「カルティエ ウーマンズ イニシアチブ」をスタート。2023年段階において63ヶ国298人の女性インパクト起業家に総額744万USドルの助成金を授与し、彼女たちチェンジメーカーの可能性を最大限に発揮する支援を行ってきた。その他、女性が直面する課題に焦点を当てた「ウーマンズ パビリオン」や、貧困地域の女性を支援する「カルティエ フィランソロピー」など、カルティエによる女性のエンパワーメントに対する取り組みは、今後も世界中の女性たちの原動力となるだろう。

MAISON
1837
©The Tiffany Archives
Photo:©The Tiffany Archives

1837年、チャールズ・ルイス・ティファニーとジョン・B・ヤングが、文房具と装飾品の店としてニューヨークに店をオープンしたのが始まり。のちに本店をブロードウェイ五番街に移転して以降、ティファニーは数々の賞を受賞し、華麗なる飛躍を遂げることとなる。1867年のパリ万博では、米企業として初めて銀器部門の優秀賞を獲得。1878年の同万博では銀器部門でグランプリを、ジュエリー部門でもゴールドメダルを受賞するなど、トップジュエラーの地位を確固たるものにしていった。

1845

創業から8年後の1845年。現在も受け継がれる『ブルー ブック』というメールオーダーカタログを発行した際、その表紙に採用されたのが、今なお高い人気を誇る“ティファニー ブルー”だった。ティファニーのために調合されたこのカラーは、ティファニーのジュエリーの輝きを最大に引き立たせる特別なブルーだ。創業年にちなんで「1837 Blue」と名付けられ、以降、パッケージ、デザイン、広告などあらゆる素材において同じ色調で統一され、「ティファニーだけで出会えるカラー」となった。

1886

全方位に煌めくダイヤモンドリングは、今でこそ多数存在するものの、この技術は「ティファニー® セッティング」なしに語れない。宝石を地金に留める際、台座に埋めこみ石の表面のみを露呈させる手法が一般的であった当時、ブリリアントカットのダイヤモンドを6本の爪で支える画期的な方法を生み出した。立て爪は消えたかのように潜み、中央のダイヤモンドが華麗に浮かび上がるこのリングは、その美しさゆえ130年以上ものあいだ、そして今もなお、ラブストーリーのシンボルとして輝き続けている。

1956

20世紀半ば頃にはニューヨーク5番街に本店を移し、世界的にもますます名声を高めたティファニー。1956年にはフランス出身の伝説的ジュエリーデザイナー、ジャン・シュランバージェが就任する。花や海、天体や鳥などといった自然界のエレメントに、色石や貴石の煌びやかな装飾と、独自の色彩感覚を融合。鮮やかな色使いに贅を尽くしたデザインで、ジェムストーンに新たな命を吹き込んだ。

2023

ニューヨーク五番街の57丁目に位置する本店「The Landmark」は、1940年の移転以来、初の全面改装が行われた。荘厳な建物に、眩いきらめきを放つジュエリーや、傑出したアーティストによるカスタムデザインを陳列。再解釈されたニューヨークのシンボルは、創造に満ちた空間へと生まれ変わった。一方、日本でも銀座本店がリニューアルされ、表参道には新店をオープン。至高のマスターピースが一堂に介す、シンボリックなスポットが東京にまたひとつ誕生した。

VENUE
1890

欧米との対等な関係を築くため、“日本の迎賓館” の役割を担い1890年に誕生した帝国ホテル。明治政府が近代国家としての地位を築こうと模索していたこの時代、国の維新をかけた外交拠点として建設された。発起人の一人である渋沢栄一は、開業以来19年にわたり会長を務める。以後、帝国ホテルは日本初のランドリーサービスや、ホテル直結のショッピング街「アーケード」の考案など、業界初の革新的な試みを次々と具現化していった。

1923

20世紀を代表する建築家、フランク・ロイド・ライトによって設計されたのが、1923年に開業された2代目の本館、通称「ライト館」である。日本館鳳凰殿にインスパイアされた左右対称のデザインは、国内建築史上最高傑作と讃えられたが、不運なことに開業披露当日、関東大震災に見舞われてしまう。しかし、非情な天災に巻き込まれながらも大きな損傷はなく、大震災に耐え抜いたホテルとしてその名を世界に轟かせた。

1923

神社での婚礼が主流とされていた20世紀前半。ひとつのホテルで、挙式と披露宴を行う「ホテルウエディング」という文化を生み出したのもまた、帝国ホテルであった。関東大震災で多くの神社が焼失したことから、ホテル内に神社を設置。挙式と披露宴を同じ館内で行うスタイルは画期的で、時代にセンセーションを巻き起こした。これが、日本におけるホテルウエディングの原型になったと言われている。

1975

帝国ホテルは開業以来130年以上にわたり、国内外から多くの来賓をもてなしてきた。1975年に英国エリザベス二世陛下が来日した際、魚介好きな彼女のために考案されたのが「海老と舌平目のグラタン “エリザベス女王風”」だ。女王の舌を唸らせ、その名を冠することを許されたこのメニューは、50年近く経った今も愛され続けている。こんな秘話には枚挙にいとまがないほど、世界の王室やセレブリティ、アーティストたちが絶対的な信頼を寄せているのだ。

2036
ATTA- Atelier Tsuyoshi Tane Architects 田根剛氏による帝国ホテル 東京 新本館イメージ
Photo:ATTA- Atelier Tsuyoshi Tane Architects
田根剛氏による帝国ホテル 東京 新本館イメージ

2036年に帝国ホテル 東京の本館が新しく生まれ変わることが発表された。デザインアーキテクトとして大役を任されたのは、フランス在住の日本人建築家 田根剛氏。ライト館を形容する言葉として使われた“東洋の宝石”をコンセプトに掲げ、「宮殿」の構えと人類の進歩の証である「塔」を融合したデザインで、首都の中心に燦然と輝く存在を目指す。

VENUE
江戸時代〜
明治時代

風流な庭園が魅力の結婚式場として人気が高い八芳園。その歴史は400年以上前に遡る。江戸時代初期、この地には徳川家康の側臣だった大久保彦左衛門の屋敷があった。のちに政財界の巨星・久原房之助の所有になった際には、庭園に造詣の深い房之助が並々ならぬ情熱で整備を進め、職人に枝1本も自由に切ることを認めなかったという。趣深い庭園を眺めながら季節の料理を堪能できる料亭「壺中庵」も、かつては房之助の私邸で「日本館」と呼ばれていたが、1994年に作家・遠藤周作が「壺中庵」と命名した。

1943

四方八方どこから見ても美しいことから、「八芳園」と名付けられ、創業。「日本のお客様には心のふるさとを。海外のお客様には日本の文化を。」をビジョンに掲げ、長年にわたり国内外の人々の人生の節目に寄り添い続けてきた。結婚式もまたそのひとつ。ふたりの大切な“はじまりの場所”として、これまでもそしてこれからも生涯式場として八芳園は在り続ける。

2022

2022年5月23日、来日した米大統領ジョー・バイデンをもてなす場として、岸田文雄首相が選んだのが、八芳園の「壺中庵」だった。壺中庵の料理人が厳選した食材を用い、伝統的な和食に“洋”の要素を取り入れた、特別料理を提供。「OMOTENASHIを世界へ」をミッションに掲げ、日本の伝統文化の継承とそこから生まれる新たな価値を創造する八芳園ならではのおもてなしが実現した。

2023

創業80周年を迎えた2023年、 “総合プロデュース企業”として「交流文化創造」市場をプロデュースしていくことを発表。八芳園は、人と人が交流することで文化が磨かれ新たな市場が生まれるとし、歴史の中で培ってきた“ワンストッププロデュース”を活かしてあらゆる分野における“交流を創造”をリードしていく。主軸は観光産業と地域プロデュースとし、体験を通して魅力を発信。世代や地域、国を超えた交流文化を促し、日本の文化を世界に届けていく。

VENUE
1881
1947年時の明治記念館本館
Photo:1947年時の明治記念館本館

明治記念館本館は、1881年に明治天皇の過ごした赤坂仮皇居の御会食所として建てられ、宮中外交の主要舞台であった。大日本帝国憲法草案審議の御前会議が行われた、由緒正しき場所でもある。また、明治宮殿が完成したのちこちらの御会食所は、大日本帝国憲法制定に尽力した伊藤博文に下賜され、移築される。その後、明治神宮外苑の造営にあたり伊藤家から明治神宮に奉納され、「憲法記念館」の名称に変更して現在の地に移築された。1947年には明治神宮の結婚式場として開館し、名称も「明治記念館」となった。

1920

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社で、明治天皇崩御後に「東京に御神霊をお祀りしたい」という国民の声を受けて創建された。仲睦まじいご夫妻としても知られるおふたりにあやかろうと、明治神宮は神前結婚式の舞台としてもその名を馳せている。神職に先導されながら、新郎新婦と参列者が森閑とした境内を厳かに進む「参進」は、歴史絵巻を見るような美しさ。

1974

1970年代に入ると、明治記念館は新館の増築や改修を重ね、伝統とモダンの調和した空間へと進化を遂げていった。1974年には、明治記念館で結婚式を挙げたカップルが計10万組を突破し、結婚式場としてもその規模と評判は、飛躍的な広がりを見せていく。庭園の一角に佇む“さざれ石”は、国歌「君が代」でも詠われ、結婚という門出にふさわしい縁起物として、庭園から新郎新婦を見守り続けている。

2012

3月には挙式組数が20万組を突破した。絶大な人気を誇る明治記念館で、とりわけ異彩を放つのが本館の「金鶏」である。明治14年に赤坂仮皇居の御会食所として建造され、外国皇族を招いた宮中晩餐会や大日本帝国憲法草案審議の御前会議の舞台にもなった歴史的な空間だ。壁には“金鶏”が描かれ、絢爛豪華な雰囲気が漂う。窓の外には都会の喧騒を忘れるほどに趣深い庭園が広がり、中と外のコントラストに酔いしれながら、歴史の重みと祝賀ムードを同時に堪能することができる。

2020

2020年には本館が『旧赤坂仮皇居御会食所(現 明治記念館本館)』として東京都指定有形文化財(建造物)に指定される。本館は二度の移築を経て、関東大震災や第二次世界大戦にも耐えてきた。書院造り風の建築に和洋折衷の要素を取り入れた建築物としても希少価値が高く、マントルピースやシャンデリア、釘隠しなど、細部に当時の趣を今に伝える意匠を感じられる空間である。